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創始者の生い立ちと想い

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藤原忠一郎は兵庫県養父郡で生を受け、大正11年郷里の県立鹿蚕業学校を卒業

庄屋の長男として生まれたが、勉学に目覚め独学にて当時難関の1つでもある

御影師範学校第2部入学。

大正15年卒業と同時に、高等学校に転入、4年間郷里の子弟の教員に専念した。

その間、教え子達が「五年会」をつくり、その子弟関係は生涯続いた。

昭和5年、東京帝国大学農学部付属農業教員養成所に入学、成績最上位の所から

国の奨学金を得、3年間過ごした。故人の述懐によれば、この頃が

一番楽しい青春時期だったように思わる。

その後、県立柏原高等女学校教諭を経、昭和11年、広島文理大学生物学科に入学し、

高山植物の第一人者、牧野富太郎先生の門下生となり植物学を専攻。

その傍らで、剣道部主将として活躍。

宮中にて、2度御前試合を行い剣道5段錬士の称号を授与された後、

師範として県の警察にて指導した。

文理大学卒業後、広島師範学校教官として3年間広島の地にて過ごした。

戦後の各都市の青年団を統合し、兵庫県の連合青年団を創設。その理事長として新しい

青年団の組織作りと、発展に尽くした。また婦人会においては、

戦前の愛国婦人会・国防婦人会を解散させ、兵庫県連合婦人会を新たに結成し、

事務局長に広瀬勝代氏を選任し、自らはその理事長として

戦後いち早く全国一の婦人会組織を作り上げた。

また、兵庫県社会教育主事に推され高等官七等を以って待遇された。その間、青年教育官、

学徒勤労動員本部幹事として活躍。昭和19年には高等官六等正7位に叙せられた。

昭和21年、社会教育課長に任ぜられ、戦後の混乱の中で社会教育の面から、新しい日本の

再建に厳しい情熱を注いだ。また民間芸能の復興に意を用い、一芸に秀でることによって、

戦後の社会に生きていく自信を持たせ、生きがいを感じさせることが、

民主教育の第一歩であると考え、民芸品の作成、立杭焼、出石焼、竜野焼などの

復興、踊り、歌謡、手工芸、文楽などについて

復興に努力しその奨励を行い、のど自慢大会など他府県に先駆けて開催した。

また、華道、茶道、各宗派を統合し華道連盟・茶道連盟を作り、

毎年、華道大会・茶道大会を開催した。

昭和24年、参議院に立候補のため兵庫県を退職。昭和27年6月、

全国戦災都市連盟空爆犠牲者慰霊塔建設事務局長に就任。

昭和30年に、姫路市手柄山に慰霊塔を建設。

昭和36年より、兵庫県社会教育委員を委託され県の社会教育の発展に従事し、

教科書作成に携わる。

昭和26年、神戸商工会議所において日本国際連合協会兵庫県本部が設立されたが、

理事会、予算ともになく、事実上有名無実であった。

しかし、昭和32年わが国の国際連合加盟が

成り、中央からの強い要請により、当時の参議院成田一郎氏の協力を得て、その再建組織作りに

全力を尽くした。そして昭和32年9月16日、神戸新聞会館において、各県代表250名の賛同を得、

会長 佐藤尚武氏を招き、全く組織を新たに、国際連合協会兵庫県本部を発足し、

本部長に兵庫県知事、副部長に神戸市長、その事務局長として、実務上の最高責任に就いた。

その傍ら、東京帝国大学の頃から研究し続け

「人体の中に生きた酵母菌を小腸まで届けなければ、どんな病気も改善しない。

また酵母の中に酵素が存在し、遺伝子DNAは酵素で作られる。

人体の中のDNAによって酵素が作られると言っても過言ではない。」と確信し、

野生酵母の採取に成功し、飲料化させ、昭和27年、酵素普及会として健康道場を開いた。

昭和42年、酵素科学研究所を設立、代表者に就任。

しかしながら、世界の平和を願い毎月、国連協会に多額の寄付を絶やさなかった。

日本国内において唯一、酵母を使った“酵母菌飲料″として

認められる富元酵素を作った人物である。

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